2010年7月22日木曜日

意味のある命

人が生きる意味、意味のある生って何だろうと考えさせる番組があった。胃瘻をすると生き続けるから、意識がない、返事のできない、重い認知症の状態になっても胃瘻を止めることができないという医師の意見を採り上げた番組だった。青年は生きる意味を自分に問いかけて悩む。生きている意味は誰が決めるのか、最初はそこで不愉快になった。私たちは、認知症になっても自分らしく生きられる社会を作ろうとしているのではないか。「ジョニーは戦場に行った」は意思を表すすべのない人にも意識があって、生きる意味を自問していることを言おうとしているのではないだろうか。生きる意味のない人とは社会に貢献できない人のことなのか。家族が介護することに耐えられない人のことなのか。それは、社会のあり方によって変わる。介護殺人に同感する人が多い社会では介護を受ける人の命は、介護する人よりも軽く見られる。働くことのない障害児は社会が面倒する必要はなく、家族のわがままで育てているのだから、家族が世話すれば良い、ということになってしまう。人は遺伝子を運搬する容器とだけ見る生物学の見方や、魂の入れ物としての肉体という宗教学の立場ではなく、人は人との関係によって生きる意味を持つのだ。孤立した人は誰にも助けを求めないし、亡くなっても誰も悲しまない。医師の言葉は、家族たちの関係性を変えさせる。栄養を吸収して腐らないだけの肉体に過ぎないと言われれば、生物ではないし人間ではなくなる。そのような関係では、位牌に手を合わす方が家族の満足度は高まるのだ。
医師の言葉に違和感を感じたのはそれだけではない。胃瘻は食事を取る一つの方法に過ぎない本人が必要と言わないといって、食事介助しないということがあるだろうか。排泄と食欲と性欲、最後の欲望は段々弱くなるが、排泄と食欲は生きるための最低限度の欲求だから尊重しなければならない。医療は胃瘻増設だけの部分に過ぎない。生きている状態をいかに良くするかは、周りの人の責任である。それが社会というもので、人間が動物と違う部分である。
最後に決定的に相容れなかったのは、この医師は自分が生死を左右することができることを知っていることである。医師が、その専門性をもって、高い立場から、胃瘻のメリットとデメリットを語れば、デメリットを受け容れる家族は立ちすくんでしまう。医師は同じ立場で説明すると言うが、どのようにしても優先的な立場であることを理解しようととしない尊大さに、今の言葉で言えば、ムカツいてしまったのだ。

今担当している人たちは、ある意味では、社会のお荷物であるし、生きる意味がない本人たちも考えているのかもしれない。人間が動物であればそれでよいのかもしれないが、そのような社会に生きたいとは思わないし、その社会の意味自体がないと考える。

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