2011年1月30日日曜日

忘れてた

久しぶりで実家に泊まった。認知症のある義母の家に泊まって、仕事以外で被害妄想の話につきあうのが苦痛だったこともある。霧島の火山灰が、西部劇の砂吹雪みたいに舞っている中、気分まで灰色になりたくなかった。実母との会話は今まで年間数分しかないないのに、今回はずっと話を聞かされるはめになった。

 母は、歩いて20分ほどの所にある父の墓に行き、半日を過ごすという。父と話すのだという。早朝にも仏壇の前に座ってぶつぶつ言っている。なぜ亡くなった人に対して話しかけるのか。もちろん、私も実家に帰ると仏壇の前で手を合わせ、帰ってきたと語りかける。そこにいない人に向かって話すとはどんな意味を持つのだろうか。

 映画「毎日母さん」の中で、アル中のお父さんが亡くなった後に息子が庭に向かって父親と話すという場面があった。

 亡くなる人は、亡くなった後も生き残っている人と話ができるということを確認したいのだと信じたいのだ。

 昨年から「無縁社会」という言葉が使われるようになった。「孤独死」はもっと以前からあった。仕事では、誰にも看取られずに亡くなった人や、火葬に誰も立ち会わず無縁納骨堂に納まれる人を見てきた。彼ら、彼女らの死後話しかける人はいるのか。身寄りがないと言っていた人の遠縁の人に連絡がついて50年ぶりに会ったひとがいた。遺骨を引き取ることは断られたが、生い立ちを懐かしく語ってくれた。その時、この人の縁はつなぎ直されたのではないかと思った。

 自分が亡くなっても、居ない自分に向かって話しかけてくれる人がいる。それを確認するために、生きている人は亡くなった人に向かって話しかけるのではないかと思った。

0 件のコメント: