自宅の近くの施設に1年以上ショートステイしていた女性は、お菓子が食べたい。買ってきてくれ。用事があると言っては、施設職員に電話を掛けさせ些細なことでお嫁さんを呼んだ。お嫁さんは自営の工場の会計をしていたが、仕事に関係なく電話がかかってきて、遅れるとひどく怒られた。私は、嫁いだ時から女中としてしか見られていない。こき使わないと損だと思っているんですよと、会うたびにぼやいた。頼りに思っているからお嫁さんの名前は忘れていないんですよ。心の中ではきっと感謝していますよ、と慰めるが、今まで感謝されたことなんて無い、と諦めていた。いっそ認知症が進んで電話を頼めなくなるといいのにとも言った。
ある時、お嫁さんは、「ありがとう」って言われたと困惑していた。そしてその二日後に義母は亡くなった。葬儀の後、「ありがとう」と言ってくれなかったら、ずっとひどいお母さんと思ってられたのにと悔しそうだった。あの一言で、今までの意地悪やひどい言葉が浄化されたのだったら悔しいと言う。
「おくりびと」の原作となった「納棺夫日記」の中で、「危篤状態の人が、急に明るい柔和な顔になり、『ありがとう』と言ったり」することを寂滅(涅槃)を得たと言う」と書いてあった。仏になった人を憎むなということなのだろう。

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